三崎亜記さんの、第17回小説すばる新人賞受賞作。
何はともかく、となり町との戦争、である。レクリエーションでもオリエンテーションでもなく、人が死ぬ本物の戦争だ。
「となり町」という単語から連想されるイメージは、とても呑気で退屈、日々の生活の延長であり、そこには殺伐としたものは一切ない。表紙絵の、突き抜けるようにのどかな空を見ていたから、虚をつかれた。
戦争は概して、自国の利益のためという一方的な理由で始められるが、戦争を行う町同士が協力し双方の利益のために、公益事業として戦争を実施する。
平凡な日常の中に入り込んだ僅かな非日常が、大きなウェイトを占めていくようになるという図式はよくあるものだ。ただ、それがあまりにも日常に溶け込みすぎていて、大通りから脇道へ滑りこむようにシームレスに、戦争の息吹が顔を見せる。目が覚めない悪い夢でも見ているような感じだった。
戦争がもつ理不尽さはそのままに描かれ、ほんの少し前までピンピンしていた人間の生が、突然音もなく幕を下ろす。セックスまでも戦争のためという口実の元に実施される。この作品は戦争という象徴的な記号を用いることで、日常に影を潜めた現実の無慈悲さを顕在化させている。
戦争という分かりやすいものでなくても(人が命を失うということが当然なイベント時でなくても)、人はあっさりと命を失うし、多くの人は身近にそれが起きない限り無自覚であるが、目の前の人が倒れることより、おそらくは、戦争という単語で象徴され定型化された過去の遺物とも言うべき物語の方が、多くの人にとっては「リアルな死」なのだ。
Twitterでのある人の呟きで、「いまの日本は果たして不幸か。過去に倒れて行った多くの日本人は、平和ボケするほどに平和な国を願ったはずだ。」というのがあった。これも一理あるとは思う。
どんなに壮大な式典を行ったとしても、その意志は時と共に形骸化し衰退して行く。企業の成り行き、国の成り行き、その寿命に違いはあっても、やはり同じように思う。意志や思想は衰えるのだ。または、変化していくのだ。
目の前に“ない”ものに、人はやはり無自覚である。だからこそ、画面越しの世界をリアルに変換するために現場へ足を運び、自分自身の五感で記憶に焼き付けようとする。テレビ越し、モニタ越し、本越し、携帯越し、ほとんどは遠い世界のことのように聞こえる。
電波越しに繋がっている人たちが集まる、オフ会というものがある。これはまさに「画面越し」のリアルを手触りのあるリアルに変換する作業だ。画面的なものに、ゲームのような娯楽か(人間じゃないキャラ的なものが映っている)、実写映像が映っているかは関係がない。それはどちらも「画面越し」であって、自分の五感として咀嚼するしか、「画面越し」を自分だけのリアルに変換することはできないのだ。
だが現実は容赦がない。そんな「画面越し」の世界だと思っていた事実が、あるとき突然前触れもなく、自分の身に叩きつけられる。それを受け止められるだけの、準備も、用意もなく。
「画面越し」が現実に顕在化し溶けこんでしまうと、それが急に遠のいたように感じられることもある。近くにあって、遠い、あの頼りのない感じだ。遠のいてしまった「画面越し」のような現実で感じた自分の感情も、果たして「画面越し」であるのか? 公益事業として全のために個が、身体も、心も、消されていく理不尽さのなかで。それを確かめようとするシーンが、おそらく、ある。事業の一環として実施された無機質なセックスに、人としての感情が芽生えていき情動的に動こうとするところだ。
あらゆる憤りが詰め込まれている。
これほどに無自覚ではいたくないのだ、あらゆることに。
そこに、戦争の終わりを告げる空砲のカラカラに乾いた音は、あまりにも無自覚だった。
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